Dive Into The World

話題のニュースがどんな意味を持つのかを分かりやすく解説。普通の人たちと専門家をつなげるようなブログを目指します。

「見て覚える」訓練だけが本当の創造性を生み出す

「技は教えてもらうもんじゃねー! 盗むんだよ! よく見てろ!!」

頑固な職人が弟子に仕事を教える時にそう怒鳴りつける。

昔は漫画でそんなシーンがありましたが、最近はそんなことで怒鳴りつけようものなら、完全にパワハラで一発アウトです(笑)。

ところが、先日某テレビ局が取り上げた高級てんぷら店の

 

・10年修行しないと客の前では天ぷらを揚げられない

・現在の弟子は10年間師匠の技術を見ることで修行している

 

という修行が取り上げられ、それがちょっとした騒ぎになっているそうです。

 

さすがに私も弟子にトラウマを植え付けるほど怒鳴りつけたり、ましてやぶん殴ったりするのは行き過ぎだと思います。とは言え、「見て覚える」「見て盗む」という修行が“無駄”で、そういう教え方が“古臭い”ものだとして切り捨ててしまうのもいかがなものでしょうか。

本当にそのような教え方が不合理で、何の意味もないものであれば、それだけ長い間引き継いで来られるはずがありません。一見不合理なように見えても、伝統として続くものにはそれなりの理由があるはずです。

 

今回はそのような“一見不合理で無駄に見える”「目で見て覚える」という教育方法について考えてみたいと思います。

 

 

「寿司の握り方は3ヶ月で覚えられる」?

以前も専門学校で寿司の握り方を学んだ人物が「3ヶ月で寿司の技術は習得できる。10年もの修行は不要だ。」というような発言をして物議を醸したことがありました。

今の時代はそういう事があるとすぐネットで広がりますので、今回もネット上ではその時と同じようなコメントが相次いでいます。

たとえば

 

・見て覚えるなんて本当無駄。さっさと教えろ。

・ちゃんと教えれば半年で覚えられる 

・昔は教えずに見て盗むのが唯一の修行方だった。そこから何一つ進歩してない。

 

 などなど。

大体の意見が、弟子が「見て覚える」という教え方は全時代的で非効率的。師匠がしっかりとノウハウを教えるべき、というものです。

一方では擁護する声もある

またその一方で、長い年月の修行を擁護する声ももちろんあります。それは例えば

 

・その修行で名店の看板を引き継げるんだからむしろ安泰

・天ぷらの揚げ方とかは企業の特許みたいなものだから誰にでも簡単に渡せない

・名店で長年修行したということで箔がつく

・良い素材を見抜く目が育つし、よい素材を提供してくれる業者とのつながりができる

 

というものです。

確かにそのような側面があることは事実だと思いますが、私はこれもちょっと見当違いな擁護だと思います。

 批判と擁護、どちらの意見も理解はできますが、私はどちらも教育の肝心な部分についての理解がすっぽり抜け落ちているように思えるのです。

 

極限状態では“教えられた技術”は役に立たない。

例えば私個人の経験でお話しましょう。

 

私は高校時代からドラムの演奏を始めました。最初の2,3年は完全に独学で教則本や教則ビデオを観たり、自分で色々な人の演奏を観て「ああでもない、こうでもない。」と四苦八苦して練習していました。そして、大学生になった時にちゃんと基礎から学び直そうと思って、ようやくスクールに通ってちゃんとした先生に教わるようになりました。

 

やはりスクールの先生というのはさすがで、私のような独学で、悪い癖がつきまくった人間でもちゃんと指導をして技術向上への道を開いてくれました。私も一時期「こんな事なら早くからスクールに通えば良かった・・・」と後悔した時期もありましたが、必ずしもそうとは言い切れない部分があったのです。

 

確かに“上手く演奏する”だけならスクールで教われば良かったかもしれません。でも、音楽というのは誰かと一緒に、誰かの前で演奏してこそ価値があるものだと私は思います。

そのような“実戦”はやはりスクールのような恵まれた環境とは限りません。機材が壊れたりすることもあれば、メンバーの体調が悪いときもある。音をコントロールしてくれるPAさんの技術がめちゃくちゃで、周りの音どころか自分の音さえ聴こえない時がある。

でも、どんなトラブルがあろうとも、それは“お客さん”に対しての言い訳にはなりません。どのような最悪の状況であったとしても、観てくれるお客さんに

「来て良かった。」

「お金を払った甲斐があった。」

そう思わせる演奏ができなくては何の意味もないのです。

演奏では結果が全て。自分の中では100回の内の1回だったとしても、その1回がお客さんと自分をつなぐたった一度のチャンスなのです。環境が最悪だった、なんて言葉は言い訳になりません。

 

そのような極限(は言い過ぎかもしれませんが(笑))において、自分を支えてくれるのはやはりスクールで手取り足取り教わった技術ではなく、自分で考えて、失敗して、恥をかいて得た経験。そしてその経験の中で考え抜いて、自分自身で編み出した技術です。土壇場での底力というのはそこからしか生まれないと思うのです。

 

「見ることが修行」の意義

私がこのような話題を耳にするにつけ思い出すのが、大相撲の元大関"琴欧洲"こと鳴門親方の「徒弟制度」についての説明です。

2017年に発売された週刊文春で、阿川佐和子さんとの対談の中で鳴門親方は徒弟制度についてこのように語っています。

 

鳴門親方: 稽古すれば強くはなります。それよりは素直で気配りができるかどうか。関取が出れば付け人が必要になるわけで、食事のときに水がなかったりするとパッと持ってくることができるとかの気配りが必要。

 

阿川氏: いま何が必要なのか瞬時に気づく能力ですか?

 

鳴門親方: ええ。その力があれば稽古場で私が教えていても、さらにそれ以上に自分で何が必要なのか分かって稽古することができます。そういう子はどんどん伸びていきますよ。

 

何かを教えられて、それをその通り吸収すればそれなりのところまで能力を高めることはできます。寿司の専門学校などの「カリキュラム」はまさにそれに特化した形態でしょう。

しかし、人の姿をよく観察することでその人の学ぶことに対する姿勢や考え方を学ぶこと。そして、それを自分に投影して客観視することで、自分がなすべきことを考える能力を磨くこと。それこそがいわゆる「学問的な指導」や「効率的な学習方法」では教えることのできない「伝統の技術と精神」ではないかと思うのです。

 

非効率的な教え方こそが新しい価値を生み出す

確かにテクニック自体はちゃんと師匠から教えられた通りにやれば、数ヶ月あるいは数年で覚えられるかもしれません。ですが、それだけであればあと数年もすれば全てAIを備えたロボットで代替することが可能になります。

大量生産の商品であれば、恐らくそれが最も効率的な方法でしょう。

 

ですが、人と人とが出会い、そこで生まれる何かに特別な価値を見出すのであれば、どれだけ技術が進歩しても、それはAIやロボットにはできません。なぜなら、そのような価値は人の気分や場の雰囲気という決して計測することができない“何か”によって生み出されるものだからです。

 

このように考えてくると「10年の修行が必要」「見て覚えろ」という言葉の持つ意味が分かってきます。

それは決してただ10年ぼーっと見ていれば良いということを意味するのではありません。10年という長い年月の中で、師匠がどのように考え、どのように客と接し、なぜ今この瞬間にその行動を取っているのか。そして何より自分だったらどうするのか? を常に考えながら鍛錬をすることで、ようやくお客さんに特別な価値を提供できる“職人”になれる。

そして、師匠もそのようにして先代から技術と創造性を受け継いできたのであり、自分がその歴史の重みを引き継ぐだけの覚悟があるかと自分自身に問いかける。いわば「人間としての器量」を育て上げるための手段として、このようなある意味非効率的な手法が受け継がれてきたのではないかと思うのです。

 

携帯電話やスマホの誕生により、いつ、どこでも繋がるようになった分、現代の人たちはとても忙しくなりました。その分仕事だけでなくプライベートも含めた全てのことに効率性を求めるようになっています。だからこそ、「昔からの手法」「伝統」といったものに忌避感を感じる人も多くいます。

しかし、一見非効率的で無駄が多いように見える手法であっても、それが長く続いているのであれば、何かしらの意味がそこにはあるはずなのです。効率性だけでは測れない価値に目を向けることで、今まで見えなかった世界で見えてくることもあるのではないでしょうか。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆