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失言防止マニュアルが示す政治家の劣化具合

議員の失言と聞いてどんな失言を思い出されますでしょうか?

 

最近ではどこぞの維新を目指している党の議員が「北方領土は戦争で取り返すしかない」みたいな主旨の発言をしたことでも話題になりました。

 

いつの頃からか「失言 → マスコミ騒ぐ → 野党騒ぐ→議員辞職」がもうテンプレ化してしまい、国会議員が失言をしても世間では「また馬鹿な議員が出たか。こいつも辞職か。」くらいにしか思われなくなっているように思います。

そんなマスコミ対策ということで、自民党が議員たちに対し「失言防止マニュアル」なるものを配布したということで、ちょっとした「笑いネタ」になっています。

 

 

失言が本音??

しかし、よく考えるとそもそもどうして失言をしてしまったことで議員が辞職しなくてはならないのでしょうか?

 

ちょっと話が逸れますが、皆さん「失笑」という言葉の意味をご存知ですか?

よく漫画とかで「はぁ〜〜」とか言ってアメリカ人みたいに肩をすくめるような感じで、「笑いも出ないくらい呆れ果てること」と勘違いしている人が多いのですが、実は違います。

失笑というのは本来、「思わず笑い出してしまうこと。おかしさのあまり噴き出すこと。」を意味します。

 

これと同じくこの「失言」という言葉もどうも本来の意味とはちょっと違う意味で使われているように思うのです。

「失言」というと、本当は思っていないことをうっかり言い間違ってしまったというようなニュアンスで捉えられているようです。だからこそメディアや野党が「あれは失言ではなく本音だ!」とか言って騒ぎ立てます。

さらに議員本人も「そんなことは考えていないが、表現が良くなかった。」「言い間違えた。」あるいは「そういう主旨で言ったのではないのにマスコミが“編集”した。私の意図とは違う。」などと言って否定するのです。

 

失言こそが本音である・・・確かにちょっと説得力があるような気がします。

例えば、精神分析の創始者フロイトによると、人間には言い間違い、聞き間違いと言ったものはなく、むしろそのような間違いを犯す行為には、その人の無意識の意図が働いていると考えました(フロイトは錯誤行為(さくごこうい)と名付けました)。

つまり、言い間違いには、知らず知らずのうちに本心が出ている…ということですね。

 

失言の本来の意味

ところが、そもそも失言というのは本来「言うべきではないことを、うっかり言ってしまうこと」という意味です。自分の立場や相手との関係性、発言する環境・・・それらを総合的に判断して“言うべきではないことを言う”ことが失言なのであって、その中身が当人の本音かどうかは基本的には関係ありません。

むしろフロイト的に言えば、言い間違いなどという物は存在しないのですから、本人の本音に決まっているのです。

 

このように考えると失言問題にはもっと根深い問題があるように思えます。

何かと言えば「言うべきではないことをうっかり言ってしまう」ことが失言ということであれば、失言をしてしまうということは内容が本音かどうかはさておき、自分の発言が持つ影響、それを聞く人との関係性などの総合的な状況判断ができない人間が国会議員になっているということなのです。

 

これはある意味恐ろしいことです。

国会議員であれ、地方議員であれ、政治に関わる人間というのは、学問のような正解と不正解がハッキリしているような世界で仕事をしているのではありません。むしろ、時代や状況、誰が判断するかによって“正解”が千変万化するという世界において、自分の職務を全うでき、より多くの人から理解を得られる回答を自分自身で作り出していかなければならないのが政治に携わる人です。

そのような人間が「言うべきではないことをうっかり言ってしまう」ということは、自分の立ち位置や周りとの関係性を正確に把握することができないということであり、政治家としての資質がそもそもないということなのです。

 

確かに1つ1つの言葉をあげつらい、本人の意図とは全く違う形で切り貼りして炎上させるマスコミもどうかしているとは思います。

しかし、政治に携わる人間であればそのような事態は、いかなる場合でも想定していなければなりません。ちょっと心が緩んで・・・という言い訳は通じないのです。

 

「失言が本音」として糾弾することは危険

その意味で言えば、失言がどれだけ酷いものであったとしても「それが本音だろう。」ということで責任を追及することは、実はちょっと危険なような気がします。
というのも、たとえそれが本音であったとしても、「その人が何を考えているか」や、その人の思想や価値観自体は自由であるはずです。それを「こいつはこんな事を考えている酷いやつなんだ」と糾弾するのは、言論統制の一種なのではないでしょうか。

もちろんプライベートな付き合いであれば話は別ですが、政治の世界は「結果が全て」であり、たとえ道徳的に褒められた人物でなかったとしても犯罪を犯したり、無関係な誰かを故意に貶めたりするのでなければ、「道徳的に優れた人間よりも、政治で結果を出せる人間」の方が評価されるべきだと思います。


ですから、そのような失言一つをあげつらって政治家を貶めようとするマスコミは、それはそれでレベルが低いと言わざるを得ません。
(勿論、さっき書いたように状況判断力のない政治家も低レベルなのは言うまでもありませんが)

 

失言祭りは議論の低下を招く

そしてもう一つ私がこのような失言問題で不味いと思うのは、“失言祭り”で大騒ぎするようになると、そのような言葉狩りばかりが横行して、政治家がちゃんと考えた上での発言ができなくなり、大事なことの議論を深める機会を逃すことになるからです。


マスコミは揚げ足取りに四苦八苦。

国民はそれにつられて言葉尻ばかりを取り上げ、政治家をまともに評価しない。

そして、政治家は騒動を恐れて肝心なことは話さずマニュアル通りの回答しかしない。


そういう状況が定着すれば、誰も表では肝心なことは言わず当たり障りのないことしか言わなくなります。その結果議論が深まらず国民の理解が得られない一方、頭の切れる一部の人が巧妙に裏から手を回して独断で物事を決めていく、そういう環境を生み出してしまうのではないでしょうか。


実際、いまの日本は正にそのような形になってしまっています。
表では都合が良いことしか言わない。あるいは「様々な条件を満たして勘案して総合的に判断していく」などという当たり障りのないことしか言わない。
その一方で移民受け入れ拡大策のように、一部の企業や財界にとって都合が良い法案を"粛々と"可決していく。


失言という揚げ足取に合戦でマスコミが騒ぎ立てている間に、そのような失言騒ぎで浮かれる世間を横目に政権は世論とまったくかけ離れた政策を実現していく。
よく安倍政権が国民生活のことを考えず、大企業の方ばかり見て政治をしていると言われます。確かに私もそれは同意するのですが、ここまで書いてきたようなことを考えると、失言1つ1つで大騒ぎするような世の中の雰囲気こそが、今のような政治と国民の乖離を生み出した一翼を担ったのではないかとさえ思えるのです。

 

失言祭りに惑わされないためにやるべきこと

では、そのような現在の状況から脱するためにはどうすれば良いのでしょうか?

使い古された言葉かもしれませんが、やはり「一人ひとりが真剣に考える」しかないと思います。

例えばTwitterなどを観ていると、タイムラインに次々といろんな情報が掲載されてきます。それを観ているだけで何か世の中の色んなことを知っているような気分になってきます。

でも、例えばTwitterでは文字数は140文字という制限があります。最近は動画も上げられますが、やはりそれも「ツイートした人の瞬間的な視点」でしかありません。それだけでその事柄の背景まで理解するのは不可能です。ですが、背景を知らなければいろいろな事柄の本当の姿を見ることはできません。

 

ちょっと細かくは覚えていないのですが、20世紀初頭の哲学者オルテガ・イ・ガセットが「大衆の反逆」という書物の中で、物事を真剣に5分も考える人はほとんどいない。ほとんどの人が瞬間的な気分で判断しているのだ、というようなことを言っていました。

確かに5分間1つのことを考え続けるのは難しいかもしれません。でも、5分は無理でも1分なら考えることができるのではないでしょうか? あるいは1分が無理でも30秒なら考えることができるのでは?

要するに、ネットなどで騒がれている問題に直面した時に、瞬間瞬間で条件反射的に反応するのではなく、ほんの少しでも良いから「ちょっと待てよ・・・」と考えてみることが大事なのではないかと思うのです。そのほんの少しの「ちょっと待てよ・・・」の積み重ねがもしかしたら明日の政治を変えるかもしれない。

 

 

そのだけのちからが人間の「考える行為」にはあるのではないかと思うのです。

 

うーん、何か最後が締まりませんでしたね。ごめんなさい! ww

でも言いたいことは何となく分かってもらえましたよね? 多分www

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆