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小学生の英語教科化がなぜマズイのか

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2020年度から小学校5,6年生の英語が正式な教科として取り扱われることをご存知でしょうか?

ちょっと古い記事ですが、

2020年度から、小学校5・6年生で行われていた「外国語活動」に代わり、正式な教科として「英語」が導入されます。(中略)外国語活動のアクティビティは、予備知識がまったくなくても、その時間内だけで楽しめる内容になっていました。今回の改訂で大きく変わるところは「積み上げ」を意識している点です。

 

率直に言って私は中学生未満の子どもに英語を教える必要はないと思っています。

 

英語を学ぶ時間が増えて日本語が下手になった日本人

私が学生だった頃・・・もう30年近く前に比べれば、今の中学生、高校生はいわゆる"生きた英語"を学習する機会がかなり増えていると思います。

しかし、それによってグローバルに活躍する人材とやら増えているのでしょうか?

はっきり言って、日本語を勉強する時間が減って英語を勉強する時間を増やしたため、日本語が下手な日本人が増えただけ、ではないでしょうか?

 

実際街中で若者が使っている言葉遣いと言えば、

 

ヤバイ! マジヤバイ!

神! 超神!

 

などの言葉やLINEなどで使う単純な略語で多くの会話を成り立たせているのが目立ちます。

また、これは私が音楽をやっているから余計に気になるのですが、アーティスト(←この言い方も嫌いww)が歌う歌詞も

 

「愛してる」

「あなたがいるだけで」

「そばにいて」

「一人じゃないよ」

「君にだけできることがきっとある」

 

これ以外、言葉使ってないんじゃないですかね(笑)。

っていう位、表現が稚拙過ぎて深みも何もない曲が氾濫しています。

 

はっきり言って「英語を学ぶ前に、ちゃんとした日本語が話せるようにするべき」ではないでしょうか?

 

流暢に話せるかどうかよりも、話す中身が重要

私は学生時代、いわゆる授業で習う文法や発音の練習以外、英語を勉強したことはありません。ですが、仕事がらどうしても英語が必要になるので、社会人になってから英語を勉強したクチです。

しかし、それでも"流暢に"は話せませんが、自分の意思を示し、相手の意見を聞くくらいのことはできます。

 

結局重要なのは流暢に、語彙豊かに、うまく話せるかどうかよりも「何を話すか」なのです。英語も日本語もコミュニケーションの方法の一つですから、「この人とコミュニケーションを取りたい」と思われる人材かどうかがまず重要。

その価値があると思われれば、外国人はどんなに下手くそな英語でもちゃんと意見を聞こうとします。

 

そして、「何を話すか」ということは結局その人の「人となり」や「哲学」に裏付けられる物なのですから、「英語をうまく話せるテクニック」を学ぶ前に、まずは人間力を鍛えなくては意味がありません。

ましてや、これだけ技術が進んでいれば、もうあと数年のうちに自動翻訳機が生まれるでしょう・・・っていうか、一部の言語同士では既にリアルタイム翻訳が可能になっていますしね。

今の小学生が社会に出る頃には「英語が話せる」などという技術は何の価値もなくなっているでしょう。そんな下らないことに、子どもたちの貴重な時間を使わせるべきではありません。

 

言葉はツールではない。

よく「英語というツールを身に着けることで、海外の人と円滑にコミュニケーションを取れるようになる」ということを言う人がいますが、はっきり言ってあまりにも言語の力を舐めすぎです。

言葉とはコミュニケーションをとる方法の一つではあると思いますが、「道具」という意味でのツールとは全く異なります。

 

よく勘違いされますが、この世界というのは「世界が始めにあって、それに対応した言葉が生まれた」わけではありません。言葉が生まれて、それに対応する認識が生まれることで初めて世界が生まれるのです。

ちょっと分かりにくいですかね?

 

例えば私たちの周りにある「空気」。

今では小学生でも私たちの周りに空気があり、それを呼吸しているから生きていることを知っています。でも、古代の人達はそこに「空気」という物質があることを知りませんでした。

「空気」という言葉が生まれ、その存在を知ったことで私たちは「空気」という物を認識するようになったのです。いわば、私たちが認識するまで、そこに「空気」というものは存在しなかったのです。

 

もっと言えば、今の宇宙論ではこの宇宙の90%くらいがダークマターと呼ばれる暗黒物質によって作られていると考えられていますが、それも「ダークマター」という言葉が生まれたから、そのような「目に見ないけど存在する何か」が世界にあるということを知ることとなったのです。

「世界が最初からあって、それに対応する言葉が生まれた」のだとすれば、太古の昔から人間の世界には「ダークマター」という言葉が存在したはずなのです。

 

このように言葉というのは「この世界をどう認識するか?」に関わる、いわば「世界の見方」を作り上げる存在でもあるのです。

ですから、言葉が違えば見える世界も違う。これが決定的に重要なことなのです。

 

 

言語が違う親子や社会が理解し合えるのか?

このように考えてくると、子どもの頃から英語教育を行うことについての一つの問題が浮かび上がってきます。

それは「日本語で考える感性を持つ親」と「(非常に上手くいって)英語と日本が堪能な子ども」では、世界の見え方が変わってくるということです。これは単純に視野が広がるとかいう話ではありません。同じ「桜」「川」という名称、あるいは「自由」とか「権利」とか抽象的な概念全てが異なる価値観を持つということを意味します。

そのような親子が果たしてお互いのことを理解し合えるのでしょうか?

さらに言えば、仮に親子は愛情でその壁を乗り越えれたとしても、他人である同じ国民と共通の価値観を育むことができるでしょうか?

 

恐らく不可能でしょう。

世界の見え方自体が違うのですから、何を議論するにしても話が噛み合わないはずです。もちろんビジネスの話などであればお互いの妥協点が見いだせるかもしれません。しかし、自分の未来や家族の人生が関わるような政治的な話などになれば、非常に厳しいと言わざるを得ません。

 

もちろん、だからと言って英語教育を一切やるな、と言っている訳ではありません。何事にも順序と正しい時期というのがある、というだけの話です。

 

いつから子どもに英語教育を行うべきか?

子どもに英語教育を行う適切な時期がいつからか?

これについては、脳と言葉の関係について研究をしていらっしゃる黒川伊保子先生の解説をよります。

黒川先生によるとそれは「12歳以降」だとのことです。

子どもは3歳頃から多くの語彙を身に着け、7歳くらいまではその言葉を活用して社会性を養う時期。そして、そこから12歳くらいまでにかけて感性と論理をつなげて、豊かなはそうと戦略を生み出す脳に仕上がっていくとのこと。

この時期に複数の言語(特に日本語の場合は英語と言語体系がかなり違う)を学ばせることは、脳の生育に著しい悪影響を与える恐れがあるとのことです。

 

繰り返しになりますが、私も一切英語を学ばせるなというつもりはありません。また、一部の天才的な頭脳を持っている子どもなら、そのような常識を打ち破る子もいるかもしれないでしょう。ただ、残念ながら大多数のこどもはそのような天才的頭脳を持っているわけではありません。

 

親が与えるまでもなく非凡な才能を発揮しているのならまだしも、子どもが自分から望んでもいない外国語を押し付けるのは、決してその子に良い影響があるとは思えません。それよりもまずは母国語である日本語で「しっかり考える力」を身に着けることの方が何百倍も重要なのではないでしょうか?

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆