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なぜ安倍政権が独裁化したか? 政治主導が抱える矛盾

少し前に知り合いの中国人に言われたのですが、「日本は国も企業も何でも決めるのが遅い。今の時代はさっさと決めて動いていかないと時代に置いて行かれるぞ。」だそうです。

 

ただ、これって日本国内でもよく言われますよね。

「政治的な決断が遅い」

「日本はなかなか変わらない」

「くだらない会議ばかりが多くて何も決められない」

「トップダウンで決めて行動しろ」

「日本は官僚主義的だから駄目なんだ。政治主導で大胆な行動を!」

 

などなど。

そんな日本や日本的企業のあり方に対する批判を聞かない日はないくらいではないでしょうか。

 

一見、それらは正論のように思えます。

しかし、よくよく考えてみると案外そうとも言い切れないところがあるのです。

なぜなら

 

「それは日本の政治の性格ではなく、自由民主政治というものの性格ゆえなのである。政治が利害関係に絡め取られて思うようには動かないものであったとしても、それでも改善や改革の努力を諦めずに、言論や運動を忍耐強く続ける。それが自由民主政治というもの。」

 

だからです。

こう主張するのが今回ご紹介する著書「官僚の反逆」の著者、中野剛志氏です。

 

官主導から政治主道へ! の誤り

中野氏は1990年代、特に小泉内閣以来に日本で当たり前のように言われてきた「官僚主義的に進められてきた旧来型の日本の政治では、これからの社会では生き残れない。政治が強いリーダーシップを持って、スピーディに行動できるように改革しなければならない」という風潮が、全く民主主義政治と対極にあるものだと言います。

 

それはこの「官僚の反逆」という著作のタイトルの元ネタである、オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」にも書かれていることで、民主政治というのは色々な立場の人の価値観や考え方を尊重しながら、議論に議論を重ねて丁寧に物事を進めていかなければならないという政治手法なのです。

もし、誰かが強いリーダーシップとやらを発揮して独断で決めてしまうようなことが横行すれば、必ずそれに不満を抱く人が増加し、どこかで衝突や社会の分裂が起こってしまいます。

 

そのような事態に陥れば、民主政治というのは必ず立ち行かなくなり、誰かが暴力的に、あるいは絶大な権力を奮って独裁政治をしかなくてはならなくなります。

それがまさに、フランス革命後のナポレオン政権であり、イタリアのムッソリーニやナチスのヒトラーが行ったことです。「民主政治という手間と時間が掛かる政治体制に嫌気が差した国民が"強いリーダーシップを持った独裁者"を選んだ」。それがかの時代の現実だったのです。

 

つまり、本来「官主導から政治主導へ」を目指すのであれば、スピードや効率化を諦めて丁寧にみんなで議論を重ねることに重点を置かなければならないのです。

しかし、そのことは全く理解されず「政治主導」という独裁・・・「誰でも良いからさっさと答えを出して決めて、俺たちを導いてくれ!」を希望しているのが、今の国民の実態であるのです。

 

現在の安倍政権が独裁的だという指摘もありますが、そのような独裁でき支配は「決める政治」「強いリーダーシップ」「迅速な決断と行動」を国民が求めた必然的な結果だったと言えるのです。

 

日本で進められた「政治主導」は実は官僚的支配の強化だった

一方で、本来の自由民主政治の対極にあるものが「官僚制」です。 

「大衆の反逆」の中でオルテガも述べていますが、自由民主政治は意見の相違を認め合い、お互いに議論を進める寛容性が特徴です。というか、そのような寛容性があるからこそ民主政治が成り立つのです。

その意味において、現在の日本で共有されている「政治主導」という言葉の意味は、これとは全く逆です。細かいことに縛られていてはいつまでも決められない。小泉元首相が「米百俵の精神で」なとど言って、多大な犠牲を出しながら進めた構造改革も、まさしくそのような丁寧な議論をすっ飛ばして、リーダーが決めたことを画一的に当てはめてパワープレイで推し進めていく・・・そんな意味での「政治主導」でした。

 

政治主導という言葉の印象とは違い、政治主導とは「お互いの違いを認め、寛容の精神の下、丁寧な議論を重ねる」という本来の民主政治とは対極的な位置にあるというのが実態なのですり。そして、この本の著者中野氏いわく「これこそが官僚制による支配」なのです。

 

官僚制支配とは近代主義の必然だった

それでは官僚制、そして官僚制による支配とは何なのか?

これについて、中野氏著書の中で私が一番心に響いたのがこの部分です。

 

「(社会科学の父であるマックス・ウェーバーによれば)「身分」を廃止、地位を平準化することこそが、官僚制化にほかならないのである。」

「大衆は当初、名望家から権力を奪取し、身分を平準化して官僚制を生み出しておきながら、名望家支配の破壊を官僚すると、今度はさらなる平準化を目指して、官僚制を次なる攻撃目標とする」

 

という部分です。

 

これは私なりの解釈になりますが、フランス革命のような近代革命が起こるまでの間は、政治というのは王族や貴族などの一部の限られた人間の手によってなされていました。

しかし、それが近代的な「人間は平等である」という考えの下、貴族や王族などからその政治的権力は引きずり降ろされ、国民の手の元に落ちてきました。つまり、政治を皆が担うという立場になったわけです。しかし、それを担えるほどの気概と知識と経験を持った国民は残念ながらほとんどいませんでした。

特に、日本においては自らの手で"奪取"した訳ではありませんから、なおさら「棚ぼた的に落ちてきた」感覚が強かったのではないでしょうか(もちろん、日本には日本独自の"和"という意思決定の文化があったのですが、それはここでは横に置いておきます)。

 

しかし、国民の多くはその棚ぼた的に手に入れた権力をコントロールする術を知らなかった。だからこそ「誰かが強いリーダーシップを発揮して導いてくれる」ことを望んだ。

その強い渇望の対象として、「官主導から政治主導」「強いリーダーシップ」「決める政治」などという単純なキーワードに人々の心はぐっと掴まれてしまったのではないのかと。

 

そういう意味においては、政治が一部の人から広く国民に降ろされるという近代化の必然的な結末として、現代の日本の「自分たちのことを自分たちで決められない」混迷が生まれてきたのではないかと思うのです。

 

私達はどうするべきか?

では、そのような混迷の時代に私達はどうするべきでしょうか?

その答えを示すことは容易ではありません。

しかし、一つ言えるのは「政治という物についてしっかりこと」そして中野氏が言うように、民主政治とは 時間と手間の掛かる大変な政治手法なのだということを改めて理解し、多様性を受け止める寛容さと慎重な議論を求める忍耐強さが必要になるものだということをもう一度認識しなおすことではないでしょうか。

 

それによって議論を少しずつ前に進めるこそが、今の私達に求められていることではないかと思うのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆