Dive Into The World

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自由を主張する人達に規律の大切さを分かってもらうには?

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さて、先日の投稿でも書きましたが、今NHKの100分de名著という番組で、20世紀のスペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」という本が取り上げられています。

20世紀前半に書かれた本ですが、現在の日本や世界の情勢にも通じる部分が非常に多く、とても示唆に富んだ本ですので、是非一人でも多くの方に読んで頂きたいと思っています。

 

実は私、この本自体のレビューは以前にも投稿しました。

 

ただ、折角この番組によってより分かりやすく解説がされていますし、私の当時のレビューもまだ全体をうまくまとめきれてなかったな〜と思うところがあるので、番組に乗っかる形で(笑)もう一度丁寧にこの本の魅力をお届けできたら、と思います。

 

前回のおさらい。専門家こそが大衆である。

まずは前回のおさらいですが 

著者のオルテガは「大衆」を毛嫌いしていますが、それはいわゆる世間一般で言われるような「富裕層か、一般大衆か」みたいな階級社会のことを言っているのではありません。オルテガの言う「大衆」とはそのような階級や社会的地位とは関係なく、自分の意見を持たずに周りの意見に流される人、しかも”みんなと同じであることを気持ち良い”と思う人達のことを言っています。

ですから、いわゆる富裕層やエリート層の中にも大衆はいる、ということになります。

 

そして、科学者などの「専門家」こそがそのような大衆の原型であり、大衆の悪い部分が凝縮されているとオルテガは言います。

なぜなら、専門家はその専門性が高いほど自分の分野以外の知識や見識が浅くなる。それにも関わらず「自分は専門家だ」という自負によって、それ以外の人たちの言うことを聞かずに、自分の専門分野からだけ見た断片的な事実を、さもそれが真理であるかのうように主張する。

そして、自分の意見を持たない大衆は「専門家が言っていることだから・・・」といって、自分の頭で考えもせず専門家の言うなりに流されていくことをむしろ気持ち良いと思い、行動するようになる。

それこそが多数の意見に流される大衆を生み出し、社会を間違った方向に導くのだというのです。

 

自由を守りたいなら伝統を保守すべし

オルテガはこの「大衆の反逆」という名著のイメージが強すぎ、しかもよくその内容を理解していない人から「オルテガは大衆を見下している。エリート主義者だ。」などというあらぬレッテル貼りをされます。

また、発言の端々を拾うといわゆる「伝統を大事にするべし」というような発言が目立つことから、「保守派の論客」と見られがちです。その上、その時の「保守派」というのは、伝統を守るためには個人の自由は制限するべしというような”古臭い頑固親父”的なイメージで語られます。

しかし、それはオルテガには全然当てはまりません。

 

オルテガは確かに、礼節や規範、手続きといった物を非常に重要視します。

しかし、オルテガがその重要性を解くのは、あくまで”人々の自由を守るために必要だから”なのです。

 

一般的なイメージでは「保守」と「自由」というのは対立概念のように思われがちです。ですが、それは勘違い以外の何者でもありません。

オルテガは次のように言います。

 

「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性! これらは何のために発明され、何のためにこれほど面倒なものが創造されたのだろうか。それらは結局<文明 (Civilizations)>というただ一語につきるのであり、文明は<キビス (Cilvil)>つまり市民という概念の中に、もともとの意味を明らかに示している。これらすべてによって、都市、共同体、共同生活を可能にしようとするのである。(中略) 文明とはなによりもまず、共同生活への意思である。」

 

 ちょっと噛み砕いて言いますと、いくら自由だと言ってもみんながみんな「自分の自由」を追求していけば、必ず衝突が起こります。家族や会社でもそうですよね。いくら個人の自由だと言っても、自分が起きたい時に起き、食べたい時に食べ、その始末もしない。誰に迷惑掛けても知ったこっちゃない・・・そんな態度では周りの人達と共存することは不可能です。

社会の中で共存していくためには、どうしても「自由」を制限するためのルールが必要になるのです。逆に言えば、そのようなルールを守っている限りその人の自由は最大限に尊重されるべきです。では、そのようなルールをどのように決定するのか?

そのようなルールづくりにおいて重要なるのが、今まで積み重ねられてきた人間の歴史や文化、伝統である。だから自分と異なる他社と共存するという「文明」を大事にするのであれば、自分や共同体の自由を守るためにもそれら規律、礼節を大事にしなくてはならない・・・オルテガはそのように述べるのです。

 

大衆とはそのような規律や礼節をすっ飛ばす。

オルテガによると、そのような規律や礼節によって共同体の自由を守ろうとせず、むしろそれらをすっ飛ばして「トップダウンで決める!」とやっていくのを支持するのが大衆です。規律や規範、礼節を守って自分や周りの自由を尊重しながら、丁寧な議論を重ねていく・・・本来それこそが「民主主義」のあるべき姿ですが、「そんな悠長なことをやっている場合ではない! さっさと決めて行動する! そうしないと世界に置いていかれるぞ!」と、まるでどこかの国みたいに”勢い”や”雰囲気”だけで物事を決めようとする姿勢。

そのような姿勢がみんなの自由を妨げ、結果的に独裁を生むのだ、とオルテガは述べます。

 

まるで現在の安倍首相を筆頭にした自民党の民意を無視したゴリ押し政策を批判しているようで、とってもこれが前世紀に書かれた書だとは思えません。

 

大衆にならないためにはどうすれば良いのか?

では、そのような大衆にならないためにはどうすれば良いのか?

オルテガはまず「大衆」へのアンチテーゼとして「貴族(エリート)」という概念を持ち出します。もちろん大衆が社会的地位や階級を意味しなかったように、オルテガはこの「貴族」も社会的地位や階級の意味で言っているのではありません。

オルテガは「自分の考えをしっかり持ち、周りの意見にも耳を傾け、その中で他者と共存する道を探るために自分の役割を果たそうと努力している人」のことを(精神的な)貴族と呼んでいます。

つまり、いわゆる「一般庶民」の中にも、そのような精神があればその人は立派な貴族なのだと。

 

真理への王手をかける努力こそが貴族である

ただ、このような「貴族」であり続けることというのは、非常に難しいものです。

自分の考えのみとらわれず、広く他者の意見に耳を傾け、自分の役割を果たすために日々努力を重ねる・・・言葉で言えば簡単ですが、これを生涯続けるということは非常な困難を伴います。どこかで「もうこれで良いんじゃないか。」とつい思ってしまうのが人間です。

 

例えば、私もですが、一つの事象に対して世間一般の多くの人と同じ答えを導き出せれば、それが「正しい」ことなのだと安心してしまいます。確かに数学とかに関しては、そのような固定された一つの答えがあるかもしれません。ですが、人と人が絡み合う社会においてはそのような「固定された一つの答え」は存在しません。一人の人間では理解しきれない、様々な要因が複雑に絡みあって発生している訳です。

だから、間違いやすく、有限的な存在である人間には「正しさを所有すること」はできない・・・とオルテガは言います。

 

しかし、だからこそ、その正しさを求めて日々努力する、決して「答え」が見つからなくても、一歩一歩前進する努力を怠らない。そのような精神のあり方を持つ者こそが貴族であり、他者と共存する道を探ることができるのだと。

それをオルテガ風に表現すると「思想とは真理に対する王手である」ということになります。つまり、正しいことを掴みとることはできない、人間にできるのはそのような正しさを追求し、常に「真理」に王手を掛け続けることだけだ、と。

 

人生は面倒くさい。

人の気持ちや立場を考えながら、自分の行動をコントロールするのも疲れる。

自分が好きなことだけやっていたらいけないのか?

そう考える時は私もあります。

でも、それはヒトという生き物が「人と人との間で生きる”人間”」として生きる道を否定し、ひいては自分という存在の自由を成立させている社会をも打ち壊すことになる。だからこそ、人間として生きていきたいのであれば、面倒臭くても、答えが見つからなくても、規範や規律を大事にして人と共存していく道を探っていくしかない。

そのような人としての生き方を、オルテガの「大衆の反逆」は教えてくれるような気がします。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆