Dive Into The World

話題のニュースがどんな意味を持つのかを分かりやすく解説。普通の人たちと専門家をつなげるようなブログを目指します。

「嵐の活動休止」に見る"民主主義に必要なもの"とは?

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先週の日曜日世間を騒がせたニュースが飛び込んで来ましたね。

そう、もはやジャニーズ事務所の顔と言ってもおかしくないアイドル・グループ「嵐」の活動休止発表です。 

このニュースが流れた時は、私は丁度美容院に行っていてスマホが手元になかったので、家に帰ってきた時には既に世間が大騒ぎになっていて驚きました。私は別にジャニーズ好きでも何でもありませんので(笑)、「これは、何があったのかちゃんと調べないと!」とかリサーチしてはいません。

ただ、これだけテレビやネットで騒がれると、否が応でも色んな情報が入ってきます。そんな中でちょっと気になったことがあったので、今日はそのことを投稿してみようかと。

 

あ、ちなみにジャニーズをディスるつもりは、さらさらありませんのでジャニーズ好きの方は決っして誤解なさらないようにお願いします!! m(_ _)m

炎上は勘弁して〜(笑)。

 

嵐は民主主義??

これは今回の嵐の記者会見自体ではなくて、報道中に以前の別番組の中での一コマが流れた時のことだったと思います(「嵐にしやがれ!」かな??)。そこで確か二宮君か相葉君が言っていたと思うのですが

 

「嵐は民主主義なんですよ。だから誰かが『これはやりたくない』と言ったら、メンバーで多数決をとって、その結果で決めるんです。"やりたくない人"が3人だったら、残りの2人はそれを尊重してやらない。逆に"やりたい人"が3人だったら、残りの2人はそれを尊重してやるんです。」

※細かいところは違うかもしれませんが、大体こんな感じの発言でした。

 

これを聞いた瞬間に私が思ったのは「それは"多数決"であって、"民主主義"じゃないからね。」でした。うわぁ、嫌なやつww

ただ、別にその一言を取り上げて「嵐は馬鹿ばっかりだな」とか言うつもりは全くありません。むしろ、彼の会見によれば、元々リーダーの大野君が「辞めたい」発言をしたのが、2017年6月。そこからメンバーで話し合いを始めて事務所に報告したのが2018年の2月。さらにそこから事務所も含めて相談をして、休止を決定したのが2018年の6月ということです。よって、リーダーの意思表明から1年近く関係者で相談をしていたということのようです。

 

それだけの間、議論を重ねていたということは、多数決のことを"民主主義"だと思っている勘違いがあったにせよ、嵐のメンバーはちゃんと"全員が納得できる形になるまで、しっかりと議論をする"という正しい民主主義を実践していたということが分かります。

 

アイドル・グループが民主主義を実践しているのに国の代表達は・・・

その一方、嵐のメンバーよりも圧倒的に権力が強く、社会的影響も大きく、遥かに歳上で社会的責任を負っている"メンバー"が民主主義を無視した行いをしています。いわずもがな、私達日本国民の代表である国会です。

安倍政権になって以降、まさに「数の論理」に任せたゴリ押し法案通しが続いています。記憶に新しいところで言えば、昨年の国会で移民受け入れ拡大を推進する「入国管理法」の改正について、衆議院と参議院合わせてたった38時間しか審議されませんでした。

 

確かに「嵐の休止」と「国会審議」を同列に並べるのは、正しくはないかもしれません。

しかし、嵐よりもメンバーが多く、決めなければならない規則が多く、しかも影響が今後何十年・・・いえ下手したら100年先にまで影響を与える可能性の高い法案をたった38時間で通してしまうというのは、民主主義が機能しているとはとても思えません。

 

先程私は嵐のメンバーが多数決と民主主義を取り違えていることを取り上げました。

しかし、むしろ国政を司る国会議員の方々が「多数決 = 民主主義」と思ってるんじゃないでしょうか?

つまり、今の国会においてはまともな民主主義が機能していない。あるいは民主主義とは何なのかが全く理解されていないのではないでしょうか?

 

民主主義という制度の根幹は何か?

民主主義が嵐に機能していて、国会に機能していない。

私はこの差が生まれる理由を「連帯意識」あるいは「仲間意識」が共有されているかどうかだと思います。

 

施光恒 (せ てるひさ)という政治哲学者の方がいらっしゃるのですが、この方がその著書「英語化は愚民化」の中で次のように言っています。

 

「民主政治を運営していくためには、人々は、互いの利害や信条、政治的な立場などの相違を超えて、他者と審議し、必要とあれば自らの主張を互いに譲り合いながら、納得できる一致点を探さなければならない。

その時、議論の根底に連帯意識や信頼感がなければ、寛容の精神や妥協は生まれず、見解の相違は先鋭化し、厳しい対立を招いてしまう。

 

私は施氏が仰るように、そのような信頼感や連帯意識がなければ「議論を通して解決策を見出していく」という民主主義は成立し得ないと思います。

また、施氏は同じ著書の中でこのようなことも書いています。

 

「実際、ある国家が民主的であればあるほど、人々の間の連帯意識がより必要になってくる。専制政治のもとでは、人々がバラバラで相互に敵意を抱いていても、どうにか秩序は保たれる。強大な政治権力が有無を言わせず、人々をまとめ、秩序を作り出そうとするからだ。

 

と。

今の国会審議は、正に施氏が指摘するように、政権与党が「多数決」という数の論理によって"有無を言わせず人々をまとめ、秩序を作り出そう"としているようにしか思えません。いわば「多数者による専制」です。そのような「専制政治」が果たして民主主義といえるでしょうか?

私は必ずしも「民主主義こそがこの世で最も優れた意思決定方式だ」とまで、民主主義を信奉するつもりはありません。ただ、現在存在する意思決定方法の中で"一番マシ"なものだとは思っています。

 

しかし、そんな民主主義も連帯意識が共有されていなければ、まともには機能しない。

その連帯意識の違いが嵐の「活動休止」という決断と、多数者専制に陥った国会の違いではないかと思うのです。 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆