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トランプ大統領の誕生を防げなかったリベラル派の総括

・・・という訳で、前回書ききれなかった読書レビューの続きとなります(笑)。

アメリカの政治経済学者マーク・リラ著「リベラル再生宣言」です。

※レビュー前半はこちら↓

 

この著者マーク・リラの主張の興味深いところは、20世紀初頭からのアメリカの一世紀の歴史を1970年代までと、1980年代以降に分けて分析しているところです。

リラは1970年代までをルーズベルト体制、1980年代以降をレーガン体制と呼びます。
 
そして、それぞれの体制のキーワードは
 
ルーズベルト体制では「連帯、機会均等、公共への義務」
レーガン体制では「自主自立、小さな政府」
 
です。
 
これはアメリカの話ですが、実はこれって日本も似ていると思いませんか?
年代にズレはありますが、戦前〜高度経済成長期の日本も連帯や団結が重視され、就職や学業などさまざまな分野で機会均等という考えが広まりました。
そして、そのような公共性を重視する考え方がバブルの拡大により自分の利益を追求する人たちが増加するにつれて衰退していく一方で、バブル崩壊後は自己責任、小さな政府(政府がお金を出したり、口を出したりするよりも地方自治体が自律的に動いていくべきという考え。)という言葉がもてはやされました。
小さな政府というのは、あるいは民間企業が活躍する場を増やせるような環境整備を行うという考えでもありますので、「民間活力の活用」というのもその一環です。
 
これは実は無関係ではありません。
1980年代のレーガン体制時のアメリカに留学してその洗礼にどっぷり使った人たちが日本へ帰国し、「今の日本のやり方は古い。アメリカの方式が最新式。アメリカ流の正しい政治経済のやり方を教えてやる!」という”アメリカかぶれ”の官僚や政治家が日本の政治の中で幅を利かせたからです。
その代表が竹○平蔵という選挙で選ばれてもいないのに安倍政権で猛威を奮っている民間議員たちです。
 
そういう意味でも、このマーク・リラの分析は現状の日本を見る上で非常に参考になります。
 

ルーズベルト体制からレーガン体制への移管がなぜ起きたのか

さて、「リベラル再生宣言」の話に戻りましょう。
リラによると、アメリカの体制がルーズベルト体制からレーガン体制に変わったのには原因があります。
その一つは、ルーズベルト体制においてはまだ世界大戦を経験した人たちの存在が大きく、彼らは「国民が団結しなければ混乱する世界情勢の中で生きていけない」という切迫した必要がありました。
それが冷戦時代だったとは言え、それなりに世界が落ち着き経済的な繁栄も享受できるようになると、必ずしも「国民が団結しなければ!」という状況ではなくなったのです。
また、そのような国民の団結が実現されるためには国民、政府、議会、裁判所などがそれぞれ自分たちのなすべき役割を認識し、果たすべき役割を果たしているという「相互の信頼」が必要不可欠でした。
 
それがベトナム戦争ウォーターゲート事件、過度のインフレに対処できない政府の政策などが立て続けに起こったことで、その信頼がゆらぎ始め、国民が失望し始めたことがその「信頼」を崩壊させた。
それが「自主自立、小さな政府」というレーガン体制を引き起こす原因になったのだということです。
 

リベラル派の失敗

リラによると、リベラル派はこのような流れの中で大きな失敗を犯したと言います。
それは、このような国民の政府、議会などに対する信頼が崩れ去ったことによる失望感こそが、レーガン体制的な「個人主義」「自分さえ良ければ良い」という考えにつながっていったのですが、リベラル派の人たちはそうではないと考えたのです。
そうではなくて、「国民のモラルが低下し、身勝手な人たちが増えたからだ」とみなしたのです。だからこそ、アメリカ人がもっと良い人になれば自然とアメリカは良くなっていく、と考えた。
 
そこでリベラル派の人たちは国民のモラルを引き上げる運動をするという選択を行っていくことになります。
具体的には、”不当に虐げられている”(とリベラル派が考えた)少数派の人たちの権利を守る運動、今でいうLGBTとか、女性の権利、少数民族アメリカ人などの「多様なアイデンティティを持つことの自由を認める運動」に走り始めるのです。このことをリラは「アイデンティティリベラリズム」と呼んでいます。

たしかにそれ自体は素晴らしいものかもしれません。しかし、「皆んなのモラルが低下しているのが問題だ。モラルの向上が必要だ」という訴えかけはどうしても上から目線の物言いになってしまいます。またどうしても抽象論志向になってしまうので、普段の生活と直接的な関係が見出しづらくなってしまいます。
したがって、リベラル派が強く訴えれば訴えるほど、世間からは冷めた目で見られるようになってしまった。それがリベラル派が支持を失っていった原因だとリラは述べます。

アイデンティティリベラリズムは日本にも波及している

去年末にLGBTを批難する記事をとある文芸誌が取り上げたことが話題になりましたが、日本でもこのような少数派を擁護する活動・・・すなわちアイデンティティリベラリズムの動きが強まっていると思います。
勿論、少数派の意見をしっかりと組み上げていくことは大事です。
日本では「民主主義=多数決」だと思っている人も多いのですが、そうではありません。少数派の意見であってもちゃんと議論を重ねることでお互いの妥協点を探っていくことが民主主義の根幹です。
 
ですが、それとはある意味別に、「少数派を擁護する俺って格好良い!!」という考え方、少数派のために戦うことを目的化することというのは、私は賛同できません。結局それは自分の存在意義を主張するために少数派の人たちを利用しているに過ぎないからです。
リラもアイデンティティリベラリズムそのものを批判しているわけではありませんが、
 
何よりも問題なのは、特定の集団だけを他より「弱い」と恣意的に判断し、特別の配慮をするところである。「弱い」とみなされなかった手段には何の配慮もされないことになる。(中略)多くの人の心に響くメッセージを発し、多くの国民を味方につけなくてはいけない。ところがアイデンティティリベラリズムはそれとは正反対のことをしているのだ。
と延べ、過度のアイデンティティリベラリズム運動を批判しています。
 
よく現代の日本は趣味思考や価値観が多様化していると言います。確かにそれはその通りだと思いますが、そこにおいて重要なのはそれぞれの価値観を持った少数派の人たちが自分たちの殻にこもり、他者を攻撃することで自分たちを守ることではありません。
そのような「自分たちのことしか考えない」狭い了見が自らのクビを締めることにもつながるのだということを理解する上でも、このリラのリベラル派に対する批判は私達にも十分参考になるものだと思います。
 
 
アイデンティティリベラリズムをいかに乗り越えるか
リベラル派を狂わせた(あるいはまだ狂っている最中)のアイデンティティリベラリズムに対する批判を述べた後、リラは「それではどうすればこれを乗り越えられるのか?」を考えます。
そして彼は
 
この状況から脱け出す唯一の方法は、アイデンティティの存在、重要性を否定することなく、アメリカ人であればアイデンティティとは無関係に全員が共有している何かを元に訴えることである。その何かこそが「市民という身分」である。リベラルは今こそ再び、市民という言葉を使って話をするべきだ。
 
と述べます。
お互いのアイデンティティを認め合いつつも、お互いが共有できる何かを探る・・・それがアメリカでは「市民である」という考え方なのだと。
私は正直、この言葉を聞いて少しアメリカ人が羨ましくなりました。
 
趣味嗜好の多様性、様々な価値観、「人に迷惑かけなければ良いんでしょ」という個人主義が蔓延する日本の社会で、このアメリカの「市民」に当てはまるような概念とは何でしょうか?
率直に言えば「日本人である」ということだと思います。
しかし、残念ながらまだ日本では「日本人である」ということを誇りにして、それを共有し、それを元に国民が連帯できるような状況ではないと思います。例えばフィギュアスケート羽生結弦選手のように「国民の期待を背負っている」という強い意識を持った人たちも少しずつ出てきていますが、やはりまだ「日本人とか日本国民の期待というより、自分がどうしたいかのほうが大事」と考える人達の方が多いように感じます。
 
私も別に「日本人こそが世界で最も優れた民族なのだーー」とかアホなことを言うつもりはありませんが、もう少し「日本人に生まれて良かった。」「自分は日本人なんだ」と誇りを持って思えるような環境が芽生えて欲しいと思っています。
今年は今上天皇が譲位され、新しい天皇が即位されます。
この新しい時代の始まりに少しでも国民が「日本人であること」を共有できるような環境が醸成されれば良いな・・・そんなことをこの本を読んで考えさせられました。
 
 
という訳で。
2回に及んだ読書レビューも終了です!ww
2,300円もするのでちょっと高い本ですが、内容は読みやすく意義深いものですので、よろしければご一読ください。 
 
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆