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羽生善治の無冠転落とAI時代に人間が生きる道

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平成の時代の始まりとともに現れまさに時代の寵児となった、天才・羽生善治氏が12月21日の竜王戦に負け、とうとう無冠となってしまいました。 恐らく日本中の誰もがこのニュースに驚いたのではないでしょうか。

「将棋と言えば羽生。羽生と言えば将棋。」と言っても過言ではない、まさに最強の名をほしいままにした羽生善治氏がついに全てのタイトルを失ってしまった。そもそも27年間もタイトルを保持し続けたということが恐るべきことですが・・・。

ネット上でも「平成が終わった・・・・」と落胆する声が溢れているようです。

 

私は将棋そのものにはほとんど詳しくありません。ルールくらいは知っていますが、お世辞にも”将棋が指せる”とは言えないレベルです・・・・。そんな将棋無知な私がこの「平成というひとつの時代の終わりとともに羽生善治氏が無冠になった」ことの意味を考えてみたいと思います。

 

単純な強さで言えば人間の時代は既に終わっている。

さて、先程も書いたように私は将棋には全然詳しくありません・・・が、AI(人工知能)技術については多少知識があります。

実はある意味正式な将棋のタイトルではないのですが、「電王戦」という大会が2012年から開かれていました(今は「叡王戦(えいおうせん)」という名前に変わっています)。「電王」という名前の通り人工知能を擁した将棋のコンピューターソフトと人間のプロ棋士が戦う大会です。

そして、その第二回大会で、ある事件が起こりました。

 

それは将棋界の最高峰タイトルである”名人”であった佐藤天彦九段が、人工知能の将棋ソフト”PONANZA”に敗北を喫してしまったのです。それ以来プロ棋士は一度もPONANZAに勝つことができず、2016年には電王戦の主催者であるドワンゴの川上会長が「役割を終えた」として電王戦の終了を宣言しました。

この「電王戦終了宣言」のことを勝ち逃げだと考えられる向きもあるようですが、私はむしろこれ以上人間の棋士を叩き潰し続けることによる「人間の尊厳の喪失」を避けるためのものだったのではないかと思っています。

 

私が何を言いたいかと言いますと、将棋の「勝ち負け」や「純粋な強さと弱さ」で言えば、人間の時代はもう既に終わっているというのが歴然たる事実なのだということ。そして、そうであるならば「じゃあ、何のために人間の棋士は戦い続け、棋士以外の人間はその戦いに何を見ているのかを考えなければならないのではないか? 」ということです。

 

人工知能にできないこと。人間にしかできないこととは何か。

結論から言えば、私は人間が将棋という真剣勝負の世界において、人間が日々必死に努力し、時には勝利に酔いしれ、時にはもがき苦しむという物語を国民に見せること。そして国民がそのような物語を共有することにあるのではないかと思います。

 

今回の羽生善治氏の場合、平成三年以来怒涛の勢いでタイトルを奪取し、最強棋士の名をほしいままにしました。テレビでの露出も増え、CMにも引っ張りだこ。羽生さんのような頭脳を身につけるために、子供にどういう事をさせれば良いのか?といった教育論にまで影響を与えました。

まさに平成という時代を象徴する天才的頭脳としての栄華を極めた訳です(羽生さん本人が、というよりも「羽生善治というブランドが」という意味で)。

その「羽生善治ブランド」の中心にあった”羽生善治最強伝説(?)”が平成という時代が終わろうというこのタイミングで崩れてしまった。そのことに多くの日本人が「一つの時代の終わり」を感じている・・・。

 

ただ、羽生さんも別にこのタイミングを狙って無冠になろうと画策した訳ではないのですから、実を言うと純粋に合理的に考えれば、羽生善治氏がこの2018年12月21日に無冠になったことと、平成という時代には何の関係もないのです。

日本に生まれて、日本で育っていると気づきませんが、明治、大正、昭和、平成といった元号は日本独自の文化で他の国にはこのような習慣はありません。ですから、「昭和という時代」とか「平成という時代」とかいう時代の捉え方に合理的な理屈はないです。しかし、私達日本人は実際に「昭和の大スター」とか「平成の怪物」という感じで、元号という時代の流れに沿った歴史感を共有しています。

 

そのように国民の間で共有される歴史感の象徴として、この平成の時代においては「羽生善治」という存在があったのは間違いないと思います。つまり、私達は羽生善治氏そのものではなく「羽生善治という存在が体現した平成という時代の物語」を共有してきた訳です。

その羽生善治氏が無冠になったということは、私達が共有した時代の物語が一つの終わりを迎えたことの象徴であるように思いますし、だからこそこれほどのニュースになっているのでしょう。

 

人間の物語は人間にしか創れない

そのような多くの国民に共有されるような「大きな物語」の創出はやはり人間にしかできません。仮に数年後に「全盛期の羽生善治をトレースした最強将棋AI」がリリースされ、そのAIが”AI将棋大会”において最強になったからとしても誰も興味を示さないでしょう。そこには人間の研鑽や苦労、勝利と敗北といった物語が存在せず、単なる「勝率」という結果しか存在しないからです。

現在ポスト羽生善治とも言える天才、藤井聡太七段が破竹の勢いで台頭しています(あれ? 七段ですよね?昇段が早すぎて(笑))。しかし、それも別に私達は藤井聡太が勝ち続けていることそのものに意味を見出している訳ではありません。あくまで若く非常に才能のある棋士が旋風を巻き起こしているという、その物語に私達は興奮しているのです。

 

これから様々な分野で人工知能やそれを搭載したロボットが人間の領域を侵してくることは間違いありません。それをどう捉えるかは分野や立場によって変わってくるでしょうし、人工知能によって数限りない恩恵を受けることも間違いありません。

しかし、将棋のような勝負事における単純な強さの比較においては、人間が勝てる分野はどんどんなくなって行くのは間違いありません。さらに、音楽や芸術のような優劣をつけがたい分野においても、非常に強力なライバルにもなるでしょう。その時に我々は必ず「人間がやることの意味」に立ち向かわざるを得ないことになります。

 

そのような時に、この羽生善治氏が時代の象徴として果たした役割、彼が生み出した物語に多くの人達が心を動かされたという出来事は、人間にできること、そして人間にしかできないことが何なのかを示唆してくれる重要な物語になるのではないかと思うのです。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆