Dive Into The World

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選択肢が多い=消費者の幸福って本当? 消費者にとって本当に必要なのは選択肢の中身ではないか。

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このブログで何回か書いていますが、私はドラムを演奏しています。もちろん趣味でね!

ドラムというのは基本的にアメリカから入ってきた楽器ですが、「楽器メーカー」という意味では案外日本のメーカーが強くて、世界の三大メーカーと言えばその内の2つが日本のメーカーです。

以前はYAMAHAが入っていたのですが、もうここ10年くらいは大分没落しましたね・・・。

そのYAMAHAが押し出された(笑)原因の一つは海外メーカーDWの伸長です。

 

楽器に限らず家電とかパソコンでもそうですが、海外メーカーが国内に入ってくることで、消費者の選択肢も増えると言われます。それは日本だけでなくアメリカでも同じことです。

昨今のトランプ大統領の政策(海外工場から自国内工場に生産を移すように指導すること)によって、その消費者の選択肢が失われる可能性があるという記事が、ウォール・ストリート・ジャーナルに上がっていました。

 

 

この記者はトランプ大統領の政策により

 

消費者が結果的に、以前より多くの製品から選べるようになるべきだ。さもなければ、敗者となるのは米国の消費者だろう。

 

と結論づけています。

 

選択肢が多ければ何でも良いとは限らない。

確かに選択肢が多いということは「選択肢がない」という状況よりは遥かに良いです。

ただ、例えば私がやっているドラムの場合、欧米人の筋力をベースに設計されていたりすると日本人には使いにくい物があったりします。あとはアメリカで作られていたりすると、壊れたパーツの取替に半年かかるとか「その間、どうすりゃ良いの」ということもあります。

洋服なんかでもそうですよね。「この色しかありません」よりはやっぱり色んな色があって選べた方が良いと思います。ただ、その一方でヨーロッパサイズの規格だったりすると丁度良いサイズがなかったり、バランスがちょっと日本人体型に合わないとか、そういう問題も出てきます。

 

あと車もそうですね。欧州車とかだと故障した時のパーツ交換にすごく時間が掛かったり、お金も掛かったりと、「好きな人じゃないとやれない」ということは多いようです。

 

そのように海外からの輸入により選択肢が増えるということ自体は良いのですが、やはり日本の消費者向けに作られていないために、不便な部分というのが多々あります。

様々な国暮らす人々は、それぞれ違った文化や考え方、身体の構造など生物の種類としては同じ"ヒト”ではあるものの、やはりそれぞれの特色を持った人間なのです。ですから、その様々な人達に向けた商品というのも、当然その人達の体型や考え方などの特色に合わせた商品へと細分化せざるを得ません。

 

世界統一規格は幻想。実際には国や地域に合わせた細分化が求められる。

それは商品の特性だけではありません。

例えば環境への配慮だったり、子どもの身体への配慮だったりで、「この素材はヨーロッパには持ち込めるけど、この素材はアメリカには持ち込めない」とか、そういった法律上の問題もあったりします。

グローバルな市場展開と言いながらも、どうしてもそれぞれの国や地域の特色に合わせた政策にならざるを得ないのです。しかし、「それぞれの地域の特色に合わせた上で豊富なラインナップを誇る」などということが本当に可能でしょうか?

 

私は実際海外に展開する商品の企画にも携わりますが、商品の生産を単純化し、コストを一番下げ、かつ品質も保つという意味では、どの市場に対しても同じ仕様の商品を作ることがベストです。

  • 基本同じだけどちょっと違う。
  • スペックは同じだけと色のラインナップが違う。
  • 商品は同じだけとパッケージが違う。

このようなちょっとした違いが生まれるほど、どんどんとコストは上がり、生産の手間も増えます。そして当然どこかで見切りをつけなければなりませんので、

 

「本当はこのスペックはヨーロッパ市場では受け入れられないけど仕方ない。一番大きい市場であるアメリカに合わせるしかない。」

 

という苦渋の選択をせざるを得ない局面が必ず出てきます。

 

確かに貿易によって国内企業だけでは入手できないような商品が手に入ることは事実です。しかし、それはあくまで国内市場で安定した商品の提供がベースとして存在し、それに「プラスアルファする形で」海外の物が提供されるのであればより好ましい、というだけに過ぎません。

例えば我々の主食であるコメを例にとってみましょう。

日本の食卓で愛されてきたコシヒカリあきたこまちなどは、「短粒米」と呼ばれるグループのお米です。ふんわりと炊きあがったごはんは白くつややかで、もっちりとした弾力を持ちます。この特性が、日本の食文化を支えてきたと言っても過言ではありません。

ですが、例えばチャーハンとか中華に合うコメは「長粒米」という種類で、細長い形をしていて、粘りが少なくパラパラとした食感が特徴です。確かにチャーハンはこれじゃないと、あの美味しさは出せません。日本独自の短粒米ではベタベタした食感になってしまいます。

 

実は世界的に見ればこの短粒米の方を主食にしている国の方が多いのです。私達日本人が慣れ親しんでいる短粒米は少数派なのです。

しかし、だからと言って店頭に10袋のお米が並べられる時に、長粒米と短粒米が同じく1袋ずつ5種類が並んだらどうでしょうか? 確かに「短粒米5種類」と「長粒米5種類」の合計10種類のお米が並ぶのですから「お米の種類」自体は増えたかもしれません。

しかし、そのような選択肢の増え方が果たして日本人の消費者にとって好ましいものでしょうか?

いくら選択肢が増えたとは言っても、やはり日本の食卓には短粒米が適しているのですからそれはそれで困るでしょう。「8種類の短粒米+2種類の長粒米」くらいが丁度良いのではないでしょうか。

 

このように、抽象的な話や一般論として「選択肢は多い方が良いよね」と言われればそうかもしれませんが、具体的に考えていけば必ずしもそうとは言えない状況がいくらでもある訳です。

 

私達は経済学的な「市場」という抽象的世界に住んでいるのではない。現実の社会に生きているという意識を持つことの大切さ。

経済学ではこのような抽象論として「市場」を捉え、今回のような「自由貿易によって消費者に多くの選択肢を提供することは正しい」という論理を展開します。しかし、実際に私達が生きているのは、そのような抽象的な「市場」ではなく、実際に私達が生活し、買い物を行い、周りの地域の人達とつながりを育む「現実の社会」なのです。

今回引用したウォール・ストリート・ジャーナルの記事に限らず、日本のテレビや新聞などでもそのような、「自由貿易」だとか「保護貿易」だと言った何か特定のイメージを刷り込むための言葉がよく流れます。

そういう抽象的な言葉を抽象的なままで受け取ると、何だか煙に巻かれたようになって、自分の意見を持てないままに特定のイメージに誘導されることがよくあります。

 

でも、本当はそれは私達自身が暮らす社会のことであり、そんな抽象的な言葉で解釈できるほど私達の社会は簡単ではありません。ちゃんとそれらの言葉の意味を自分の中で落とし込んで考えるくせを付けること。

それこそが現代のような情報氾濫社会の中で生きていくためには、重要な視点なのではないかと思います。

 

何か今日はちょっとまとまり悪かったかな? すみません〜〜〜!

そんな長文を今回も最後までお読み頂きありがとうございました😆