Dive Into The World

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100年前の「茶の本」が教えてくれる、“クール・ジャパン”が全然クールじゃない件。

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いきなりブチ込みますが、私ははっきり言って

 

クールジャパン戦略とやらが大っっっ嫌いです!! (笑)

 

そもそも名前がダサすぎる。「Cool」とか普通自分で言うことじゃないですし、横文字で言えば格好良い! と思っている幼稚な精神性がもう同じ日本人として恥ずかしすぎるww

おそ松くんに出てくるイヤミというキャラクターが言う「ミーは」とか「おフランスでは〜」とかと同じレベルを、ギャグではなく真剣にやっているのが痛すぎてもう見るのが辛いです。

 

もはや私にとってクールジャパンは「生理的に無理」なレベルで受け付けられないのですが、今回私がなぜそれほどまでに「クールジャパン」とやらを嫌うのか、その理由が分かる本に巡り会いました。

それは20世紀初頭に岡倉覚三こと岡倉天心が「茶道とはなんぞや?」を説明するために書いた「茶の本」です。今回はこの本についてのレビューをお届けします。

相変わらず前置き長www

 

そもそもクールジャパン戦略とは何か

内閣府のHPではクールジャパン戦略について説明をしているページがあります。

そこで発表している「クールジャパン戦略の狙い」によると、クールジャパンとは

◎クールジャパンは、外国人がクールととらえる日本の魅力(アニメ、マンガ、ゲーム等のコンテンツ、ファッション、食、伝統文化、デザイン、ロボットや環境技術など)。

◎クールジャパン戦略は、クールジャパンの、(1)情報発信、(2)海外への商品・サービス展開、(3)インバウンドの国内消費の各段階をより効果的に展開し、世界の成長を取り込むことで、日本の経済成長につなげるブランド戦略。

なんだそうです。

その他にもHPを見ると色々な具体的方策が書いてあるのですが、一言で言うと

 

「海外でクールと思われている日本のコンテンツを使って、もっと売上を伸ばしましょう」

 

ということです。

 

自分達が持てる財産をフルに活用して自分たちの利益に資する(お金だけの話ではなく、政治的な利益だったり、国民生活の充実だったり、広い意味での国家の利益にかなうという意味で)ことは、それ自体は何も問題ありません。むしろ、国家が戦略的に行っていくべきことでしょう。

 

ただ、私が強烈に違和感を感じるのは、このクールジャパン戦略とやらに

「なぜ日本の文化がクールだと受け止められているか」

「日本文化のどういう所がクールだと受け止められているか」

についての考察が全くなされていないことです。

それはつまり「海外の文化にはない、日本の文化の独自性とどこにあるのか?」という考察がなされていないということを意味します。

 

その考察がない以上、結局この話は「何かよく分からんけど、日本文化がビジネスチャンスになるらしいから、その流れに乗ってガンガン行こうぜ!」。その程度の話でしかありません。

現在はまだアニメ産業なども日本の優位性が辛うじて保たれていますが、中国の隆盛を考えればいつその優位性が崩れても不思議ではありません。勢いがある現在は物量作戦と力技で何とかなるかもしれませんが、将来的に永続できる展開を考えると、その根源的な理由である「日本の文化の独自性」がつかめていなければ、近い将来行き詰まってしまうでしょう。

自分たちの文化を発信し続けるためには、「そもそも自分たちは何者なのか?」という問いから逃げることはできないのです。

 

その意味において、今のクールジャパン戦略はその根源的な問いに立ち向かうことなく、目先の利益をいかに多く手に入れるかだけしか考えていない、非常に近視眼的な戦略のようにしか思えません。

 その「日本の文化の独自性とはどこにあるのか?」。それに正面から立ち向かい、その答えを世界に示したのが、実はこの「茶の本」なのです。

 

なぜ「茶の本」が書かれたか?

この本が書かれたのは1906年

日本がロシアとの戦争、いわゆる日露戦争に勝利したことで世界から近代国家として認められるようになった時代です。非常に面白いのは、この本はもともと「英文」で書かれていた、ということです。

不思議ですよね。

日本人が書いた日本文化の紹介なのに、日本語ではなく英語で書かれているのか。実はこの本はもともと日本文化のことを詳しく知らない外国人に向けて書かれた本だからです。

 

この本が書かれた日本はようやく近代国家として歩みだしたところでしたたが、当時はまだ日本の伝統文化について国際的認知はありませんでした。単純に軍事力や法整備、社会制度が整うだけでは一人前の近代国家としては認められません。西洋文化という“進歩的な文化”から見れば、アジアの端っこにある国の文化などにおよそ「文化的な独自性」があるとは思われなかったのです。

そのような状況において、日本には昔から受け継がれてきた日本独自の文化があることを西洋に示し、近代国家としての地位を確立せしめんとして、岡倉天心はこの「茶の本」を書いたと言われています。

 

つまり、そのような背景で書かれたこの本は「茶の本」と銘打ちながらも、実は茶道の概略を示す説明書にとどまることなく、日本文化全般に関する独自の文明論になっています。その証拠に基本的には「茶道」を主軸としながらも、絵画や建築など日本文化を様々な側面から論じています。

当時諸外国から「日本は西洋の後追いをしているだけの底の浅い文化」という程度の認識しか持たれていなかった状況に対し、茶道をモチーフにしながら「日本文化に根差した精神性」を丁寧に説明することで、日本には長い年月の中で培った独自の文化性があることを世界に示したのです。 

 

この中で岡倉天心は日本文化の根幹を次のように言っています。それは

 

「不完全なもの」を崇拝する心にある

 

と。

岡倉天心自体は「茶道の要義は不完全のものを崇拝するにある」と書いていますが、この本が茶道に限定されない日本文化論であることを考えると、「日本文化は〜」と言い換えても問題ないと思います。

また、それを補足するようにして茶道(日本文化)とは「いわゆる人生という不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとする優しい企てである」と言っているのですが、これを私なりに言い換えると

 

「人生というものは完全なものではなく、不可解で苦しい道である。その人生を生きていく中で、不完全という何かが欠けた世界であるが故に、人に何かができる余地が残されている。そのような何かを成就しようと必至に生きる姿を崇拝する心が日本文化の要諦である」

 

という意味ではないかと思うのです。

 

この「不完全なものに対する崇拝」を表現するのに良い例が本書の中に書かれています。それは次のような茶人・千利休の逸話です。

 

千利休がその子紹安(じょうあん)が露地を掃除しているのを見ていた時のことです。

紹安が掃除を終えた時に利休は「まだ充分ではない」としてもう一度なおすように命じました。紹安が一時間ももう一度掃除し、完全に綺麗にした上で「もうこれ以上何もすることは残っていませんよ」と訴えたのです。そうしたところ利休は「露地の掃除はそんな風にするものではない」といって、庭にある木を揺すって紅葉の葉を庭一面に散らしたそうです。

 

もしかしたら「そんなのいじわる問題じゃないか」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、「完璧に綺麗にする掃除」では(お客さんを招く)庭の掃除としては完全ではない。その上で敢えて“崩す”という不完全さを演出することで、庭を訪れた客が自然の美しさに心を奪われる。そのような不完全さが生む趣を愛でる心。これこそが日本人独特の美しさであるということを岡倉天心は表現したかったのだと思います。

 

このような岡倉天心の日本文化に宿る精神性に対する理解力と、それを英文で書き上げる語学センスは今見てもずば抜けたものであると思います。

一方、現代の「クールジャパン戦略」とやらを省みると、そのような日本文化に対する理解や尊敬の念は皆無であり、単純に「日本文化が金になるらしい」という非常に軽薄な活動にしか私には思えません。

そのような自らの文化に対する軽薄さと、それを「クール」などという横文字で表現する圧倒的なセンスのなさは、逆の意味で恐るべきものがあります。クールなどという言葉で曖昧に表現する前に、今一度日本文化の源泉である精神性を再度検証することこそが、本当は必要なのではないでしょうか。

 

「クールジャパン活動」の前に日本文化の源泉をもう一度見つめ直せ

現代においても日本人は日本の伝統や文化の魅力、そしてその背後にある日本独自の精神性を説明することが不得手だと言われます。それは島国ならではの「場の空気」や「言葉の微妙なニュアンス」によって、明確に言語化しなくても伝えることがことができるという恵まれた意思伝達空間によって醸成されたものだと思います。

それには良い面と悪い面の両方があると思いますが、最近の・・・というか平成に入ってからの西洋文化、中でもアメリカ文化への傾倒。そして、その反対側で生まれている極端な日本文化礼賛を見ると、その悪い面が強く出ているのではないでしょうか。

つまり、自分たちの国の文化の背後にある精神性への無理解が、「日本文化離れ」と「日本文化礼賛」という両極端な現象を生んでいるということです。クールジャパン戦略は後者の好例です。

 

私個人は日本文化の精神性・・・特にこの「茶の本」で言われるような「不完全なもの」に対する崇拝や畏敬の念に対しては、心の奥底から染み出すような愛着を持っていますが、「日本人であるなら誰もがそのような心を持つべし」とかいうようなことを主張するつもりはありません。

「それが嫌なんだよ」という人もいるでしょう。

 

しかし、日本文化に対する感情が「愛」と「憎」どちらに傾くとしても、一度日本文化に正面から向き合ってその魅力を言語化してみるという作業を行ってみてもバチは当たらないと思います。どのような結論を導くにしても、そのような作業ができることこそが日本に生まれた人間の特権ですし、それを生かさないのは勿体ないのではないかと思うのです。

 

そして、そのような試みに少しでも興味があるのであれば、この「茶の本」はこれ以上ない教科書になるのではないかと思います。

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆