Dive Into The World

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なぜ大学は存在するのか。著書「『文系学部廃止』の衝撃」から考える大学の存在意義。

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突然ですがみなさん。

「なぜ大学に行くのか?」について考えたことがありますか?

 

私が最初にその疑問を感じたのは実は大学に入学したてのうら若き18歳の時でした。

あれ?遅い??

本当は高校生の時に考えるべきですか??(笑)

まぁ、そういう心ないツッコミはさておき・・・^^;

 

私はいわゆる団塊ジュニアの世代でまだまだ大学に進学しようとする人口自体が、今より断然多い時でした。一学年に数百人いるのに対し、講義の数は限られていますから一つの講義室はかなり満杯に近い状態になるのが常態化していました。

そして、どの講義を受けるかは任意ですので、まぁ普通は一回話を聞いてみて、その人の講義を半年とか一年受講したいかを判断する訳です。いわゆる様子見ですね。

そんな様子見のために、とある授業の初回講義に参加しようとした時にその事件(?)は起こったのです。

なんとその教授が満席になった生徒たちに対して

 

「こんな人数を教えることはできん。とりあえず誕生日の末尾が偶数の奴は出て行け。残った人数を見て多すぎたら、またふるいに掛けるからな。」

 

と。

そして、また別の講義では

 

「学生証の番号の末尾が奇数の奴は出て行け」

 

と言われます。

 

どんなに興味があっても先生の講義の一言すら聞く機会を与えられないうちに追い出されてしまうのです。

学生が少ないと嘆く現在では考えられないと思いますが、少なくとも私の大学ではそんな事が普通にまかり通っていました。

正直、私にとってその出来事は人生の価値観を揺るがすような出来事でした。「何なんだ、これは。こんな所に来るために高校3年間一所懸命勉強したのか」と。

 

それ以来、私は大学に関するニュースに接する度に「何のために大学に行くのか?」について考えるようになりました。

そんな私が再びその疑問を感じることになった本に出会いました。

 

という訳で今日は

 

吉見俊哉著「文学部廃止の衝撃」

 

についてレビューしたいと思います。

(前置き長い!!! (笑))

 

「文系学部廃止」という騒動

少し前のことになりますが、今から約3年前の2015年の夏に「文科省が文系学部を廃止しようとしている」という話題が巷を騒がせたことを覚えてらっしゃいますでしょうか?

その年の5月に文科省が提示した「国立大学の人文系学部の規模縮小」に関する素案が元になった騒動だったのですが、この本ではこのトピックをきっかけにして「現在の国立大学が抱える予算という壁」「そもそも大学とは何をなすべき存在なのか?」などのいくつかの争点ついて様々な角度から検討されています。

 

その争点の中でも私が特に興味を引かれたのは

 

・国から大学に配分される予算に競争原理を持ち込んだことで、いかに予算を勝ち取るか?に大学側が大きな労力を割かされているという実情。

・大学は何に奉仕するためにあるのか

 

という2点ですので、この点に絞ってレビューを書いてみようと思います。

 

 

予算獲得のために研究する時間が無くなる研究者

さて、ではまず第一点目の「国から配分される予算に競争原理が持ち込まれている」という話題についていきましょう。

実は私も知らなかったのですが、

 

1) 国立大学の予算は財政の基盤となる「運営費交付金」と、大学が抱える研究プロジェクトの社会的な評価によって決まる「競争的資金」の大きく二つからなる。

 

2) 基盤となる運営費交付金は毎年1%ずつ削減され、今では法人化前の10%以上縮小。その一方で競争的資金の方は毎年凡そ2%以上増額。

 

3) この競争的資金を獲得するには、省庁の求めに応じた細かい予算請求の申請書を作成。書類審査を通過した後は、学長や学部長などが関係省庁に出向きプレゼンテーションを行い認められる必要がある。

 

4) その審査書類やプレゼンの準備のために、関係者は学者の本分である研究時間の多くを割かなければならず、研究そのものがおろそかになっている。

実際、学術研究論文の数は減少し、教員への時間的負担が増加している。

 

5) 予算が通った後は、今度は大学内の予算配分を巡る争いが勃発。

その際、研究成果を具体的に示しやすく、チームで研究を行う理系学部に対し、文系は具体的な数値が出しづらく基本的には個人での研究であるため、文系学部は予算を獲得しづらいという構造的問題がある。

 

とのことです。

 

私がこのような問題があることを本書で知った時の正直な感想は

 

「くだらない。実にくだらない。」

 

というものでした。

 

こと大学の研究と予算のあるべき姿については、私は以前経済評論家の中野剛志氏が仰ったいたこと至言だと思うのですが、それは

 

「大学の研究を盛んにするなら金だけ渡して、好きにしろというのが一番。大学教員なんていうものは研究したくてたまらない奴らばっかりなんだから、金さえ渡しておけば勝手にとことん研究するんですよ。」

 

という言葉です(前に動画で見ただけなんで細かい表現は違うかもです。不適切だったらすみません)。

 

私もその通りだと思います。

学部の教授やら助教授やら教員たちというのは、自分が興味あることを研究するためにその職に就いているのです。そして、そのような研究が社会の役に立つから、そのような存在が許されている訳です。

それを「研究するための予算獲得のために時間が取られて、研究する時間がない」というのは、正に本末顛倒です。

 

なぜそのような倒錯した現象が起きるのか。

結局それは「日本の財政は危ない」という経済に対する誤った認識が世間に広まっているからです。「お金がないから国民は苦労しているのに、大学で好きなことをやっている奴らにお金使うなんてもったいない!!」という実にせせこましい話をしているのです。

 

お金がないなら生み出せば良い。

お金を生み出す源泉とは日本という国の総合力。つまり国力である。

そして、日本のような資源のない国において国力を左右するのは人である、それを成長させるのは知識、技術、文化である。

 

つまり「お金がないから研究費を削れ」は、結局将来の自分たちの富の源泉を自分たちで奪っていくに等しいのです。

 

確かに個人であれば「無い袖は振れない」論が筋が通るでしょう。

しかし、国家の場合は違います。ましてや日本のような独自通貨で運営されている国家においては、「無い袖は作れば良い」のです。

 

 

 大学は「グローバルなエクセレンスを追求する」のが目的???

 もう一点のトピックは「大学は何に奉仕するためにあるのか」です。

 この本の中で著者は「国立大学とは税金によって運営されているのだから、国家に奉仕すべき」という議論があるがそれは間違っている。」とした上で、次のように主張します。

 

つまり大学は、今日的な用語で言うならば、何よりも「グローバルなエクセレンス(優秀なこと、長所)の実現」に奉仕しなければなりません。たとえ国に批判的で、国民的な通念とは対立しても、真にクリエイティブに地球的な価値を創造していくことができる研究者や実践家を育てることが、大学の社会に対する意味ある責任の果たし方なのです。

 

と。

 

「は?」

 

もう一回言いましょう。

 

「は?」

 

「グローバルなエクセレンス」「クリエイティブに地球的な価値を創造する」・・・・なんですかね。この空虚な言葉が並ぶ感じは。

まるで

 

「喰らえ! 俺の必殺ウルトラ・スーパー・グレート・ギャラクティカ・ファンタスティック・アタック!!」

 

みたいなやつは(笑)。

正直失笑するしかないくらいなのですが・・・。

 

私も「国民の税金で成り立っているのだから国家に奉仕しろ」という言い方は「俺が金出してるんだから言うことを聞け」というような、札束で人の頬を叩くような品性のなさを感じて、とても賛同できるものではありません。

しかし、その一方で著者が言うような「地球の恒久平和を目指します」というような空虚な理想を掲げても、夢想の世界に生きる現実知らずのお坊ちゃんとしか思えません。

もしかしたら、そんな世迷言を日々聞かされる官僚の立場からすれば、「そんな夢見事を語っている奴らに金を払ってるほど余裕はないんだよ!」と言いたくもなるかもしれません。

 

私はこの本で吉見氏が主張するような、「グローバルなエクセレンス」・・すなわち、いかなる時代でも、いかなる場所でも人類全てに通じるような普遍的価値などというものはどこにも存在しないと思います。それはただの空想です。

 

同じ一つの出来事に対しても、時代や土地が違えば、人々がどのような反応を示すか、どのような感情を抱くのかは全く異なります。その人を育んだ歴史やコミュニティ、社会情勢、経済的環境などが全て違うのですから当然です。

今の私達日本人が「正しい」とか「普遍的な価値だ」とか思っているものこそが、人類の普遍的な価値だと断じる態度こそが「自分たちは正しい。少なくとも正しい方向に向かっている」という思い上がりなのです。

 

実際、そのような思い上がりが次の箇所に如実にあらわれています。

 

(中世のヨーロッパにおいて)価値の普遍性を探求していく機関が、キリスト社会にも、近代社会にも必要でした。(中略)この普遍性は人類的なものです。

大学が普遍的な価値の探求に向かうことが、めぐりめぐって人々のためにもなるという考え方を、ヨーロッパは受け入れてきたのです。

 

なんという傲慢。

これは正に著者が「ヨーロッパで生まれた価値観こそが普遍的で素晴らしいものだ。」というヨーロッパ至上主義、近代至上主義に完全に毒されていることの表れです。

 

私が思うに、研究者であるならばむしろ「自分たちが進んでいる道は本当に正しいのか?」という自分を省みる態度を常に備えていなければならないのではないでしょうか。

 

もし普遍的価値というものが存在するとしたら、社会や風土、経済環境、そして言語などの制度がある程度共有された特定の地域や集団において、彼らが生きてきた歴史、これから歩もうとする歴史の延長上で受け入れられるであろう価値観。

つまり、社会制度によってある程度限定されたコミュニティにおける普遍的価値しか存在し得ないのではないでしょうか。

 

 

少なくとも著者が言うような国や地域から全く切り離された「“グローバルな普遍的価値に奉仕するのだ」などということは、自分たちが存在している基盤を忘れ、学問に仕えるものは全ての現世のしがらみから完全に自由であると盲信しているような世迷言にしか思えないのです。

 

大学とは何のためにあるのか。

では、大学とは何のためにあるのでしょうか。

私は

過去と未来、そして人と地域をつなぐ結節点

それが大学の存在意義ではないかと思います。

 

先程著者の言う普遍的価値のことをこっぴどく批判しましたが、気持ちは分からなくはないのです。

やはり自分が研究していることが、現代の、しかも地域的にもすごく限定された場所でしか通用しない理論や知識だということであれば、やはり興ざめしてしまうでしょう。

世間に広く認められたいし、未来にも名を残せるような偉大な功績というのは誰しもが望むものです。

 

しかし、やはり先程書いたようにどんなに優れた人間であっても、自分が育った環境による歴史性や地域性から逃れた普遍的な見地から研究を行うなどということはできません。

「何を、どのように研究するか?」を考える時点で既に入り口や立ち位置は限定されてしまうのですから。

 

つまり、何かを学ぼう、研究しようとすれば、自分が帰属する国や地域と全く無関係であることはできないのです。そうであるなら、その国や地域に奉仕するという側面を捨て去ることはできないのではないでしょうか。

また、それは地域だけではなく歴史という時間軸についても同じことが言えます。

自分の価値観が歴史によって育まれる以上、自分が帰属する歴史とこれから生み出していく新しい未来に奉仕するという側面もまた捨て去ることはできないのです。

 

そういう意味において、大学とは「過去と未来、そして人と地域をつなぐ結節点」として存在する、と言えるのではないかと。

そのように私は思うのです。

 

今回はいつにも増しての長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆